路地裏アジャイル

路地裏アジャイルとは何か?

何でそんなことを考えたのか?

私が「アジャイル向いてない人」だから。

2人でなら話せるけど、3人になると途端に話せなくなる。雑談が超苦手。天気の話から先がつながらない。人への興味が少ないんだと思う。個人と対話大事なのに。
自分中心なので、お客さんのためにってのが正直ピンとこないところがある。顧客満足は最優先なんだけども。
飽きっぽくてモクモクやるのが苦手。ふりかえりとかだんだん億劫になってくる。面倒なタスクは後に回しガチで、泣きながら追い込むことは多い。持続可能なペースはどこいった。

動くソフトウェアは好き。働くソフトウェアかと言われると微妙...。品質もまぁ動けばいいってくらいかな。品質は制御変数じゃないのに!!!

なので、まぁデフォルトとしてはアジャイル向いてない人なのだ。

何でそんな人がアジャイルをやろうと思うのか?

ロマンだから。憧れだから。そこに尽きる。自分にないものに憧れるってありませんかね。
漫画だと炎尾燃。映画だとLotRのフロドやサムとか。熱血、誠実。なんかそういうの。

じゃ、黙ってやってればいいではないのか?

いや、ホントその通り。それができたらいいんだけども...。

アジャイル向いてないから「しつけ」が必要になる。とはいえ、50年弱に渡って叩き込んだ習慣を直すのはとっても大変。
というか、直らない。調子の良い時にちらっと良い習慣が顔を出すことはあっても、疲れるとすぐ素の自分に戻る。
ずっとそれの繰り返し。このままずっとそうなんじゃないかと思う。というか、多分ずっとそうなんだ。

そういう状況だから、

「一生逃げるのもなんだけど、一生進むってのも……こわい」(逆境ナインより)

って感じで行ったり来たりしているワケ。
もちろん黙ってるやれるほどの根性はないから、こうやってブツブツ言いながらウロウロしているのである。

岡崎体育氏のSnackの歌詞がぴったりだ。

ズルしてるライフか無理してるライフ
どっちか選べばって殺生じゃない
ちょっとズルして少し無理したい

そう殺生なのだ。ちょっと弱音吐いて、少し修行したい。いや、だいぶ弱音吐いて、少し修行するくらいにしたい。

面倒なやつだ。結局、どうしたいの?

多分、私は私で勝手にダラダラやっていくんだろう。でも、せっかくだからもうちょっと面白くできないかとは思わないではない。
ツラみを面白くする、笑うって話だと、べてるの家と、水曜どうでしょうを思い出す。(理由はちょっと置いておく)
彼らのツラみに比べると、自分のツラみは小さく、取るに足らないものだろうけど、それでも自分のツラみを解消するために参考になることは多そうだ。

以下はべてるの家で活動している方のエントリ。

「笑う力~ユーモアの大切さ」べてるの家の笑いと当事者研究

病気についてだけではなく、誰もが持っている苦労や生活の工夫を仲間と一緒に話し合うことで、
「弱さ」を自分の中から取り出して、みんなでそれを眺めることができ、
弱さと上手に付き合う新しい工夫が生まれます。
精神障害の幻覚妄想の体験は、時に深刻な話題になりがちです。
しかし当事者研究という場には、いつもユーモアと笑いが絶えません。
ユーモアの定義の一つに、「にもかかわらず笑うこと」があります。
「ユーモア」は、究極の生きる勇気だとも言われています。

弱さと上手に付き合う、にもかかわらず笑う。すごい。
ただ、すごいってことは私にとっては憧れで、アジャイルと一緒ってことだ。だからやっぱり到達できないところにあるんだろう。

でも、まぁいいんだ。弱音吐きながらちょっとずつやるから。

路地裏アジャイルとは何か?

路地裏は、メインストリートに繋がってはいるんだけど、ちょっと薄暗い感じ。
それ、いいよね、わかる、わかるんだけど、ツラいよねぇ。それ。ってやつ。
だから、路地裏アジャイルは、アジャイル、いいよね、わかる、わかるんだけど、
修行ツラいよねぇってことになる。

メインストリート=修行を続ける道に繋がっているんだけど、流れがゆったりしているところ、または止まっているところ。 そこでは修行にちょっと疲れた人が一休みしながら、お互いのツラみやたわいもない話をしている...のかも。
というのが、今のところの認識。今のところだから、これから変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。

場所にアジャイルってつけるのは変な気もするけれど、そこはえーと、怒られるだけ怒られておきます。 いい名前が思いついたらそっちに乗り換える...ことは多分しないだろうけども。

今後は、私の行ったり来たりをしているところを見せていくって話になるのかな。正直面倒だけど、まぁいいや。ぼちぼちやろう。