アジャイルと20年近く付き合ってきて、ようやく気づいたことがある。自分はずっと、弱さを起点にアジャイルと向き合ってきたのだということ。
いま、生成AIを活用した若手開発者の育成研修のコンセプトを作っている。AIとの協働開発を通じて、「始める人、引き受ける人、整える人」としての開発者を育てるというもので、探究、対話、技術的卓越、規律、自由という5つの能力を軸に据えた。
書き上げてから気づいたのだが、このコンセプトにはアジャイルという言葉が一つも出てこない。「小さな歩幅」「仮説と検証」「顧客が本当に欲しかったもの」──自分がアジャイルを通じて大切だと感じてきたことは息づいているのに、スプリントもバックログもスクラムマスターも登場しない。
20年かけてアジャイルの語彙を内面化した結果、ようやくその語彙を手放せるようになったのだと思う。コミュニティを通じて知ったアジャイルコーチたちはみんなこういうことができている人たちだと感じていて、自分はようやくその入口を覗けたに過ぎない。40代のうちに見つけたかったが、まぁ、自分の能力では無理だったのだろう。
向いてない人の道具箱
白状すると、自分は推進に向いていない。すべき行動は知っている。でも脳みそに左右されて、面倒だと逃げ、飽きると次に行く。再現性がない。
だから道具を集めてきた。正面から学ぶと辛いので、別腹で学ぶ。サブカルやマンガから。
みうらじゅん氏の「自分なくし」「不安タスティック」「自分洗脳」「一人電通」。因果鉄道の旅の「でもやるんだよ」。島本和彦氏の「駄作を作る勇気」。水曜どうでしょうの「低予算、低カロリー、低姿勢」。立川談志氏の「落語とは人間の業の肯定である」。
集めてきたものを眺めると、技術やスキルに関するものが一つもないことに気づく。全部、姿勢に関するものばかりだ。すべき行動のカタログではなく、行動できない自分を再起動するための呪文。なぜ姿勢ばかりなのかと考えて、答えは簡単だった。すべき行動は書籍にいくらでもある。問題は、それができないことのほうにある。
業の肯定
すごい人たちが生成AIを使いこなすさまを見ると、衝撃を受ける。不安になる。才能の差は昔からあったけれど、生成AIはそれを目に見える形で、しかも再現可能なプロセスとして見せてしまう。「あの人はセンスがあるから」で済ませられた距離が、「同じ道具を使っているのにこんなに違う」として突きつけられる。
グラグラする。でも、そのグラグラすること自体を否定しなくてもいいのだと思う。談志が言うように、それは人間の業なのだと思えると、少し楽になる。業を克服するのではなく、業があることを前提にして、だましだまし付き合う。その付き合い方は古今東西いろんな人が考えてくれていると思う。
弱さが生むもの
向いてる人は、自分を動かすためのメモを作る必要がない。無意識にできることを分解して名前をつける必要がない。力を本当に必要なことに集中できる。向いているというのはそれだけで素晴らしいことだと思う。
一方、向いてない自分は、自分を動かすために意識的に言語化せざるを得なかった。この不利が、結果的に「他者に手渡せる言葉」を生んでいるのかもしれない。向いてる人の強さは集中できること、向いてない人の強さは言語化できること、なのかもしれないと最近は感じている。
研修というのは、誰かの経験を他者に手渡す営みだから、言語化できるほうが伝わりやすい面はあると思う。すごい人がすごいやり方を見せる研修は、「すごくない人」の手には届きにくいことがある。
おいしくする方法を知らない石のスープ
民話の「石のスープ」が好きだ。ただ、原話の旅人はスープをおいしくする方法を知っている。村人を導いている。あれは対話というよりファシリテーションに近いのではないかと思う。
自分にはおいしくする方法がわからない。だから対話が必要になる。相手の言葉を聞かないと、次に何を入れればいいかがわからない。対話が戦略ではなく、生存手段になっている。
AIとの対話も同じ構造だと感じている。ぼんやりした質問にはぼんやりした回答が返ってくる。ハルシネーションを疑う前に、まず「じゃ、何がほしいんだ?」と自分に問い直す。返ってきたもののぼんやり感は、自分のぼんやり感の鏡なのだと思う。わかっている人は鏡がなくても進めるのだろう。わからないから何度も往復して、その中でようやく輪郭が見えてくる。
今回のコンセプトも、そうやって出来上がった。和田卓人氏をはじめテスト駆動開発の実践者たちから「歩幅」を、談志から「業の肯定」を、みうらじゅん氏から「自分なくし」を、当事者研究から「弱さの情報公開」を。いろんな人の言葉を鍋に入れ続けて、20年くらい煮込んで、ようやくすくい上げてみたら、AIオーケストレーターという形になっていた。レシピがあって作ったスープではなく、結果的にできたスープ。正直なところ、自分が一番驚いている。
弱いからチームを組む
なぜチームを組むのか。ポジティブな言い方をすれば、強みを組み合わせるため。でも自分にとっての本音は、一人では弱いからだ。そして崩れるときは弱い方から崩れる。だから弱さの側から設計しないと、チームは表面的な強さの寄せ集めになってしまうのではないかと感じている。
この「弱さの側からのアプローチ」は、自分が見てきた範囲ではアジャイルの主流の語り口にはあまり出てこないように思う。自己組織化、エンパワーメント、強みを活かす。どれも大切だけれど、強さの側から組み立てられている印象がある。一方で、日本には当事者研究の「弱さの情報公開」のように、不完全さを出発点にする知恵があるように思う。弱さを隠さず場に出すことで、かえって協働が成り立つという方向。
昔、平鍋健児氏が日本からのアジャイルを発信したいという話をしていたことがある。弱さを起点にしたアジャイルというのは、ひょっとすると日本ならではの形なのかもしれない。
種を蒔くということ
研修の話に戻ると、自分がやろうとしていることは二層構造になっている。
一つは、すぐ持ち帰れる「型とモード」。伴走と委託の切り替え、調査→計画→実装→引き受けの基本の流れ。これは明日から使える。
もう一つは、あとから効いてくる「引っかかり」。数年後に「あの研修で言っていたのは、こういうことだったのか」と思い出すような種。あるアジャイルコーチが言っていた。研修の本当の効果は数年後にわかる、と。
どちらか片方だけでは弱い。型だけでは表面的になるし、引っかかりだけでは売りづらい。最高のものは提供できないが、2つあるから多少はマシになると思う。完璧を目指すのではなく、弱さを前提にして、組み合わせでなんとかする。向いてないから道具を集める。正面から辛いから別腹で学ぶ。一人では弱いからチームを組む。自分の中ではこれらは全部同じ構造だ。
残すということ
すごい人はすごい。それはどうしようもない。でも「すごくない人向けの方法」は、すごい人からは出てこないのではないかと思う。必要がないからだ。
だから、向いてない人が自分の経験から絞り出したものを残すことには、何かしらの意味があると信じたい。完成された教材としてではなく、もがきながらやってきた人の記録として。
55歳になった。このコンセプトを突き詰めるところで終わるくらいだとは思う。でもいい習慣を身につけた開発者は自分にとって憧れで、それを若い人にちょっとでも知る機会を作れるなら、それは本当にうれしいことだ。その道は険しく大変で、毎日根を上げている。でもやるんだよ。
自分にとって、弱さは欠損ではなかったのだと思う。弱さがなければ言語化もなく、道具集めもなく、対話の必要もなく、石のスープも生まれず、このコンセプトは存在しなかった。弱さが、ここに至るすべてを駆動してきたエンジンだったのかもしれない。